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極論の応酬? どの口が言うのか(9月28日毎日社説)

なあんだ、平たく言えば、自民党批判か、

民主党の反対論は極めて異常な論理展開である。

従って戦い済んで、民主党の解党が論議の的となる、極めて自然な成り行きである。

 


ジャーナリズムというプロパガンダ
極論の応酬? どの口が言うのか(9月28日毎日社説)
2015年9月28日 [毎日新聞]
http://jp-journalism.com/2015/09/28/%E6%A5%B5%E8%AB%96%E3%81%AE%E5%BF%9C%E9%85%AC%EF%BC%9F%E3%80%80%E3%81%A9%E3%81%AE%E5%8F%A3%E3%81%8C%E8%A8%80%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B9%E6%9C%8828%E6%97%A5%E6%AF%8E%E6%97%A5%E7%A4%BE%E8%AA%AC/
本当に、どの口が言うのか。
 誰よりも極論、というよりも暴論、いや珍論(?)を繰り返してきたのは毎日含めたマスコミや野党、憲法学者、法曹ではないか。
 9月28日の毎日新聞の社説(「通常国会閉会 極論の応酬に終止符を」)が、いけしゃあしゃあとこんな事を宣ってくれた。
 戦後最長の245日間におよんだ通常国会がきのうで閉会した。
 昨年暮れの衆院総選挙を経ての国会だった。アベノミクスの継続を訴えて政権を維持した安倍晋三首相だが、「改革断行国会」と名付けた割には経済再生の影は薄かった。
 むしろ安倍首相が最も執着したのは、自衛隊の活動領域を飛躍的に広げる安全保障関連法の成立である。日本の安保政策は、集団的自衛権の行使容認を軸に一線を踏み越えた。
 安保法制がないという異常で、ありえない状態から、多少まともな状態に戻った。それも確かに一線を踏み越えたとはいえるだろう。
 異常なものが幾分かでも是正する方向へ踏み込んだのは、評価こそすれ批判する筋合いのものではないだろう。

 安保一色になったこの国会で際立ったのは、安倍政権と野党の主張との極端な開きだ。 抑止力の強化を最優先させようとする政権側と、法体系の安定にこだわる野党側の議論はどこまでもかみ合わず、最後は数に勝る与党によって強引な決着が図られた。原発政策や教育政策でも、非妥協的で全面対決型の議論が繰り広げられた。


 抑止力、すなわち防衛力がなければ法体系は守れない。日本を守れず侵略を受ければ憲法はめじとする法体系など消えてなくなる。侵略者が自分達への 批判を報道の自由として認めるか。この一例1つとっても、法体系にこだわるというのは法体系はどうなってもいいと言っているのと同じであり、全く矛盾す る。
 何のことはない。中国の侵略を容易にするために反対しているに過ぎない。こんなものに妥協してはならない。犯罪者の手先と取引するようなものだ。
 最後は数に勝る与党によって強引な決着が図られたと言うが、合意が形成できなければ多数決で決定する。毎日の大好きな民主制のルールだ。
 逆に、野党時代の自民党が安保法案を提出し、民主党が否決したら強行否決とでも言って批判するのか。しないだろう。
 もともとのルールに従って決定することでも、自分達の意に沿えば批判せず、沿わなければ批判する。
 その場その時で自分達の都合に合わせて言うことがコロコロ変わる。これがジャーナリズムだ。
 
 こうした国会は理想の姿からほど遠い。国会は国家意思を決める場であるとともに、主権者たる国民に政策の理解と共有を促す場としても機能しなければならないからだ。
 議論を不毛なものにしている原因は、与野党双方にある。


 与党にも原因があるのは認めるが、議論を不毛なものにしている、というより議論が成り立っていない理由の大部分は野党にある。
 当然だろう。
 野党の言っていることは、戦争法案と言うレッテルの貼り方一つ見ても、安保法制があるから戦争が起きるという無茶苦茶な論法だ。
 警察法があるから犯罪が起き、消防法があるから火事が起きる。
 こう言っているのと同じだ。
 安保法制の必要性について反論ができないから、こういう原因と結果を入れ替えた無茶苦茶な主張をするほかなくなる
 こういうのこそ、極論というのではないか。
 本来なら、「国家意思を決める場」というのなら、こんなデタラメを言うこと自体論外であるし、与党の側は、むしろ野党のこのような珍論は厳しく追及しなければならないはずだ(無論、毎日はじめとするマスコミもだ)。
 だが、それをやらない。
 野党やマスコミに見せ場をつくってやるためか、公明党の支持母体である創価学会に配慮しているのかはわからないが。
 その点で原因の一端は確かに与党にもある。
 ただ、どちらにより大きな原因があるかと言えば、野党だろう。


 一義的には安倍首相のイデオロギーや政策スタンスが、過去の自民党政権と比べて大幅に右へ寄り過ぎていることを指摘せざるを得ない。
 本来、保守主義復古主義とは異なる。穏健な保守主義であれば、現実的なリベラリズムと重なり合う部分が多いはずだ。なのに、自分たちの価値観に固執し過ぎるため、野党との妥協の余地がなくなる。
 野党第1党の民主党も、安倍政権との対抗上、立ち位置をより左に取る傾向が見受けられた。このため、反対の論陣は張れても、政権に修正を迫るまでには至らなかった。
 安全保障は右左関係ない。
 左翼国家である旧ソ連や中国、北朝鮮には軍隊や安保法制がないのか?当然そんなことはない。そしてマスコミも当然そのことを知っているはずだ。
 本来無関係なものを故意に結びつけ、混同させるマスコミのやり方は卑劣と言うほかないだろう。

 与野党とも競合する相手との違いを強調しようとするあまり、主張が両極端に分かれてしまうのは、小選挙区制の弊害でもある。
 加えて、小選挙区制は得票の差よりも議席数の差を大きくする特質があるため、「てこの原理」で特定の主義主張が国会で実態以上に優勢になる傾向がある。
 このままでは国会がますます多数党による一方的な「表決場」と化し、民意との開きが埋まらなくなってしまうのではないか。
 安保法制が必要か否かで両極に分かれるのなら、選挙制度云々以前の問題だ。こんなことで意見が分かれるなら、そもそも国会自体必要ない。何度でも繰り返すが、今まで安保法制がなかったことが異常であり、大問題なのだ。
 民意との開きを埋めようと言うのなら、もうこんな国会と称する喜劇場は取り壊してしまった方がいい。そして立法は国民が直接選出した首相が行えばいい。少なくとも今よりはマシになるだろう。

 政治の「中庸」とは、単に足して二で割るのではなく、極論を排して公正を保とうとする考え方だ。出発点が異なるのだから、各党が自己に謙虚でなければ、与野党にまたがる合意など生まれようがない。
 国会が健全性を取り戻すには、まず自民党が中庸の精神で臨むべきだろう。長い目で見れば、それが国政を安定させる近道になる。
 極論は、消防法があるから火事が起きると喚いている野党だ。
 そして、中庸と称してこれに迎合するのは、国家国民を取引材料にし、危険にさらすに等しい。
 そもそも、それなら今まで延々やってきたではないか。
 改憲の「か」の字、有事の「ゆ」の字でも言えば野党が喚き、自民は迎合して閣僚を更迭する。そんなことを延々やってきたではないか。
 もういいだろう。もう十分なはずだ。

 

 

社説:通常国会閉会 極論の応酬に終止符を
毎日新聞 2015年09月28日 02時31分
 戦後最長の245日間におよんだ通常国会がきのうで閉会した。
http://mainichi.jp/opinion/news/20150928k0000m070094000c.html

昨年暮れの衆院総選挙を経ての国会だった。アベノミクスの継続を訴えて政権を維持した安倍晋三首相だが、「改革断行国会」と名付けた割には経済再生の影は薄かった。
 むしろ安倍首相が最も執着したのは、自衛隊の活動領域を飛躍的に広げる安全保障関連法の成立である。日本の安保政策は、集団的自衛権の行使容認を軸に一線を踏み越えた。
 安保一色になったこの国会で際立ったのは、安倍政権と野党の主張との極端な開きだ。
 抑止力の強化を最優先させようとする政権側と、法体系の安定にこだわる野党側の議論はどこまでもかみ合わず、最後は数に勝る与党によって強引な決着が図られた。原発政策や教育政策でも、非妥協的で全面対決型の議論が繰り広げられた。
 こうした国会は理想の姿からほど遠い。国会は国家意思を決める場であるとともに、主権者たる国民に政策の理解と共有を促す場としても機能しなければならないからだ。
 議論を不毛なものにしている原因は、与野党双方にある。
 一義的には安倍首相のイデオロギーや政策スタンスが、過去の自民党政権と比べて大幅に右へ寄り過ぎていることを指摘せざるを得ない。
 本来、保守主義復古主義とは異なる。穏健な保守主義であれば、現実的なリベラリズムと重なり合う部分が多いはずだ。なのに、自分たちの価値観に固執し過ぎるため、野党との妥協の余地がなくなる。
 野党第1党の民主党も、安倍政権との対抗上、立ち位置をより左に取る傾向が見受けられた。このため、反対の論陣は張れても、政権に修正を迫るまでには至らなかった。
 与野党とも競合する相手との違いを強調しようとするあまり、主張が両極端に分かれてしまうのは、小選挙区制の弊害でもある。
 加えて、小選挙区制は得票の差よりも議席数の差を大きくする特質があるため、「てこの原理」で特定の主義主張が国会で実態以上に優勢になる傾向がある。
 このままでは国会がますます多数党による一方的な「表決場」と化し、民意との開きが埋まらなくなってしまうのではないか。
 政治の「中庸」とは、単に足して二で割るのではなく、極論を排して公正を保とうとする考え方だ。出発点が異なるのだから、各党が自己に謙虚でなければ、与野党にまたがる合意など生まれようがない。
 国会が健全性を取り戻すには、まず自民党が中庸の精神で臨むべきだろう。長い目で見れば、それが国政を安定させる近道になる。